瞑想とは何ですか?瞑想のやり方を簡単に解説したら。。。

瞑想・メディテーション

瞑想とはなんですか?という質問を頂きました。

私がはじめて瞑想を体験したのは
ジムでヨガをした時の事。
1時間のヨガの最後にシャバアーサナをしたときに
ヨガの先生の誘導がとても上手で
とてもうまく瞑想できました。
それからメールセッションを受けて
1日5分だけ瞑想する習慣をつけていたのですが
それが上手くいかず、、、瞑想を探求し
今ではうまくいくことができるようになりました。

瞑想は英語ではメディテーション(meditation)と言って
仏教からきていて、仏教は紀元前5~4世紀の
インドにおいてガウタマ・シッダールタ(釈迦)が
説いた教えから始まっていて、そこから各地に
伝わっていったのですが、『仏教瞑想論』を読むと
ヴィパッサナーと坐禅の関係がわかるんだけど
ヴィパッサナーは観察するという意味のパーリ語。

私はアメリカでヴィパッサナー瞑想を受けて、
とても貴重な体験をしました。

ヴィパッサナー瞑想は、仏陀の行った瞑想法だそうですが
その基本的な捉え方は、これまで私が学んできたことや
実践してきたことだったので、納得がいくものでした。

ヴィパッサナー瞑想を一言で説明するなら
「呼吸に意識を向け、身体に起こる感覚を感じ取り
観察することで、潜在意識の中の不要なものを浄化する瞑想法」
ということ。

キネシオロジーのことで書いていますが、
潜在意識と身体は密接に関連していて
私たちは、例え頭では忘れていることであっても、
身体はしっかりと覚えています。
私たちが何らかの感情を抱くとき
それは身体に感覚として、記憶されてゆくので
潜在意識は常に感覚とともにあるのです。

なので、ヴィパッサナー瞑想は、
その身体の感覚を呼び起こし、それに「気づく」ことで
潜在意識にある不要なものを浄化していくという方法で、
これはとてもシンプルな考え方であって、メイクセンス。

何度かここにも書いてきましたが
私たちが、何かに対して怒りや嫌悪や不満を感じるという時は
その起こった物事そのものが問題なのではなく
単に自分の中の何かが、呼び覚まされて
それらに対して反応しているということ。

例えば、妻が「私は夫に大切に扱われていない」
という意識が潜在意識にあったとすると
例え、その夫が、会社帰りに頼んでいた買い物を
忘れてしまったというような、小さなことに対してさえ
「どうして、あれほど言ったのに忘れるの!」
と怒りが湧いてくるかもしれません。

反対に、私は彼にとても大事にされている、と
感じていたとしたら、同じことが起こっても
怒りは湧いてこないし
逆に彼に対して「疲れているのかな」
といたわりの気持ちになるかもしれません。

つまり、彼のとった行動そのものが問題なのではなく
自分の潜在意識の中にある何か、に反応してしまっているだけです。

これを仏陀はサンカーラ(種)と呼んだのだそうで、
なるほど~という感じです。

最初のサンカーラ(種)が植えられると、
必ずそれは実(これもサンカーラ)を結びます。
そして、その実から、またたくさんの種が増えていくのです。

例えば、上の例の場合、彼女の中にサンカーラが蓄えられるだけでなく
彼にも同じことが起こります。
もし、その時に彼が
「はは~ん、これはきっと彼女の中の何かに反応しているのだな。
でもしばらくしたら、そのことに自分で気づくだろう」
などと思って、彼女の怒りの反応に対して、
彼自身は反応しなかったらいいのですが
大抵は
「どうして、そんな小さなことに一々怒らなくてはいけないんだ」
と不満の感情が湧いてきて、
今度は彼の中の潜在意識の中にサンカーラとして植え付けられ、
それがまたいつかは実を結ぶのです。

もちろん、これはけして、何かが起こった時に
「我慢をする」のがよいということではありません。
例え、我慢をしても、身体には感覚が起こり、それは必ず蓄えられてゆきます。
もし、我慢をしてしまったら、余計にその思いや意識は
潜在意識の奥深くに入っていってしまいます。

サンカーラの別の意味は「反応」だそうで、とても納得。
「我慢をする」のではなく「反応しない」ということが
大切なのですね。

つまり、そういったことに反応しなくなるためには、
そのもともとの種、サンカーラを手放すしかないのです。
ということで、新たなサンカーラを生み出さないだけでなく
これまで蓄えてきた、たくさんの潜在意識の中の古いサンカーラを
手放してゆくことが
幸せな人生を歩いていくためには必要ということになってきます。

でも、逆に言えば、怒りや嫌悪や様々な感情を感じるということは
何か浄化しなければならないものが
自分の中にあることがわかった、ということですから
これは浄化するチャンス~~と、これまで私は捉えてきました。
それほど深くないサンカーラなら、ちょっと内観してみれば
自分の中の何に反応しているのかは、すぐにわかります。
でも、それが自分の顕在意識では、到底、わからないようなことが
原因になっている場合には、ちょっと内観したぐらいでは
簡単には手放すことはできません。

これは、私がいろんな浄化をやってきた中で感じてきたこと。
この瞑想法だけでなく、様々なヒーリングや
セラピー、シャーマニズムなど、心の奥深い潜在意識の浄化法は数多く存在しています。

例えば、身体の反応によって潜在意識の感じていることを知る
キネシオロジーもそうだと言えますし
リバーシングなどもそういった方法の有効な一つだなあと感じます。
リバーシングの呼吸によって、これまで気づかなかった
身体の痛みに気づいたり、様々な感情を呼び起こされることは
ヴィパッサナー瞑想によって、身体の感覚に気づいていくことと
同じようなものと言えるのでしょうね。

怒りということで、ちょっと思い出したので
ついでにここで書いちゃいますが
セドナに行った時にリバーシングワークをやったら
私に出てきたのが、この怒りのサンカーラでした。

私はもともとスピリチュアルと出会うまでは「怒りの人」で
常に怒りを持っていたような人だったのですが
特に私が強く反応していたのは、権力的なものや女性軽視などに対すること。
例えば、友人が(もちろん男性の)ちょっと軽い感じで
「女は~~だよね~」
なんて言おうものなら、湧き出てくる怒りを止めることはできず、
猛犬のごとく噛み付いていくような人でしたし
抑えつけられたり、女性に対する決めつけみたいなことが
何よりも嫌いな人でした。

その怒りがスピリチュアルと出会ってからは
自分でも驚くぐらいほとんど出なくなって
それはスピリチュアルによって、私の潜在意識にあった何かが
癒されたのだろうな~と感じていたのですが
それが久々に、セドナでのリバーシングで出てきたのです。

それはセドナの女性性エネルギーの岩の前でのこと。

呼吸をスタートしてすぐに
私は自分の中に怒りの感情があるのに気づきました。
リバーシング呼吸を始める前までは
あんなに気持ちよく過ごしていたのに
始めた途端、そんな感情が湧いてきて
これは一体何なんだろう?と感じながら
呼吸を続けていました。

そして、その怒りの感情は、
「はい、それでは女性性を解放して~」
となった途端、ば~~んと爆発しました。

「わかったようなこと言わないで!!
私はそうやって決めつけられるのが嫌なのよ。
何もわかっていないくせに、決めつけないで!!」

と叫びました。

ひょえーーーー

もちろん、そこが女性性エネルギーの岩の前だったので
そんなことを言っただけで、全く深い意味はないし
私も普段なら「そうそう、女性性の解放よね、解放しましょ♪」
なんていって受け流していたところなのでしょうが
なんせリバーシングの時は、通常の意識ではありません。
その言葉そのものに反応したのではなく
何を言ったとしても、怒りを出したかったのでしょう。
その点は、充分理解していますので
例え、私がリバーシングの最中に
どんな風になったとしても大丈夫だと
私も安心して感情を出すことができたのだと思います。

で、その怒りの後は
「私は自由に生きたいの!!私は自由でいたいのよ~~」
と、おいおいと泣き続けたのでした。

いやはや、まったくわけがわかりません。

私の生活の中で、私を束縛する人は誰一人いないと感じていたし
これだけ自由に好きなことだけをやって
暮らすことができているというのに
それでもなお「自由でいたいのよ~」て
一体過去にどんな抑圧を感じていたっていうのでしょうね。
そのサンカーラが生まれたのは
私の子供の頃なのか、胎児の頃なのか
はたまたもっと前のことなのかはわかりませんが。

そのワークで、さんざん泣いた後は
ものすごくすっきりして、
最後は至福感に満たされていました。
この女性性エネルギーの岩の前で
私の中の怒りが出てきたのは
とても興味深い体験です。

E氏曰く
「自己浄化が進んでくるにつれて、古い大きなサンカーラが表に出てきます」

は~まだまだこれから古いサンカーラが出てきそう。
本当に自己浄化はやってもやっても、尽きることがないなあと感じます。
でも、何かを手放す度に軽くなってゆくのは無常の喜びですね。

ということで、ちょっと話が脱線しましたが
このサンカーラ撲滅大作戦ならぬ自己浄化法である
ヴィパッサナー瞑想のコースの中で
本当にいろんなことを感じました。
実は、これは私にとっては、この瞑想そのものの結果というよりは
このコースに参加したことによるものが大きいです。
もちろん、瞑想法自体も、とても素晴らしいものでしたから
これから続けていきたいなあと思っていますが
一方で、ここで伝えられていることだけにとらわれず、
私が感じるままに進んでゆけばいい、
今はそんな風にも感じています。

このヴィパッサナー瞑想のコースは
100人参加したら、きっと100人とも違った印象を持つでしょうし
それが当たり前ですから、私が感じたことは
たぶん、どなたの参考にもならないだろうなあと。
でも、まあそういってしまえば、私のブログの内容は
すべてがそうとも言えるので
ぼちぼち書いてみたいなあと思います。

読んでくださって、ありがとう~~

コメント