このブログは日本語で書いているので
読んでいる人は、日本人かもしくは日本語を理解できる方だと思っています。
日本だとたとえばお葬式のあとの「お清め塩」は誰でも知ってますよね?
あれはまさにオーラの浄化にほかなりません。
自分のエネルギーフィールドからネガティブなものを浄化するというわけです。
これは古神道の考えからきています。
大昔は海の塩水で浄化、禊ぎをしてたようで
よくある塩化ナトリウムの塩は簡略化したものですが
自然塩に比べて浄化のききめは弱いとされています。
だから浄化などで塩をもちいるときはなるべく自然の塩で対応してください。
今の日本は明治時代の神仏分離のときの影響で
ルーツがなにがなんだか非常にわかりにくい。
もっといえばお葬式とかなんかはこれに儒教文化も加わっているようです。
死に対する考えも宗教により別れていて
浄土真宗では誰でも死後は浄土にいけるというものであることから
わざわざお清めしたりしないそうです。
だから清め塩を帰りに出さないようです。
仏教では亡くなるとお釈迦さまのいる浄土の世界に生まれるという祝福の考えなのに対し
(インドの仏教と日本では転生や輪廻の考えやカルマ、業のとらえ方が違ってきます)
一方神道では死は穢れとして扱います。
それについて人は死ぬと穢れたものになるのかと
「お清め塩問題」まで最近発展してるそうですが
私が昔きいたところによれば、
神道では死が穢れているというというよりも
死にまつわる悲しみとか苦しみとか
つまり本人がたとえば事故や病気ほかでなくなるときの痛み、苦しみ、
まわりの人たちの悲しみ、
そんなネガティブな感情とかオーラっていうんでしょうか
そういう邪気をお祓いするという意味で塩で清めるわけであり
人の死を冒涜するというものではありません。
それを清め塩問題にまでなるなんていろんな考えがあるんですね。
そんなふうに神道と仏教で死生観のポイントの見方の違いがあるようです。
私はやはり神社の家系なので邪気はお祓いするという考えです。
あとは埋葬方法、土葬による死体の腐食で伝染病が発生しないように塩を使ったという話も。
お葬式のときは自身のオーラに対してだけど
家を建てるときの地鎮祭。
前からそこにある魂なんかを祓う、リセットというのかな、
スペースの浄化ですよね。
家の四隅と中心を米、酒、塩で清めます。
私も新月の瞑想のときは
エッセンススプレーを東南西北と部屋の中心、天と地にまき、
そして自分のチャクラ中心にオーラを浄化してからはじめてます。
たとえば魔術をするときって聖水で場や儀式用品をすべて清めてから儀式をはじめます。
「聖別」といって普段日常で使うものと儀式用のものとは別個だよという意味で清めるのです。
場所もいつもとは違うことにつかう意味で清めます。
聖水、ホリーウォーターというのはカトリックでは司祭によって祝別された水で
ミサなんかで使われたりします。
魔術の儀式もまったくもって同じようなやりかたなんです。
東南西北に聖水をまき、お香をかざし、聖杯を用意するなど
場の浄化という意味では同じです。
スピリチュアルがブームになっているけど
そんなふうに本当は日常の生活にもともと昔から根付いているもの。
だから本来ブームになりえるような特別なものではないと思ったりもします。
逆にブームとして特別な意味をもたせることで
関連商品やマーケットの価値そのものを高める意味が強い気も。
まるでバレンタインの時期のチョコみたい。
つまり「ネガティブなもの」から自分の身や場所を清めることは
特にスピリチュアルが好きでなくとも日常にある慣習としてあるわけだよね。
たとえチャクラやオーラを信じない、あるわけない
宗教は信じませんとかいってても、
現代でもそんなふうに目に見えないものが脈々と息づいているわけです。
だってお祓いや浄化、お清めをしても「ネガティブな何か」って目に見える物質ではない。
お祓いをして肉眼できれいになったと見えるものではない。
だけど気付かないうちに人は
心の目、第三の眼、額のチャクラ(第六チャクラ)で見ているものなんですよね。
目に見えないものとして、たとえば
「ことば」
があります。
クチにすることばは
それを受ける人に対して
ポジティブな、またはネガティブなマインドをおこさせます。
ことばはそれを発する人のエネルギーとか魂の分身みたいなものですね。
ポジティブなことばにはポジティブなマインドが宿り
ポシティブなエネルギーを引き寄せます。
そしてそれを受け取る人のオーラとなり力となり血となり肉となるわけです。
陽は陽を、陰は陰を引き寄せます。
エネルギーは意図した方向にむかう性質があるので
ことばもそれを発するエネルギーの性質へとむかう。
それがエネルギーの法則みたいなもの。
自分が求める中に不安や恐怖、自信のなさがあれば
それが蓋となって本来の願いには届かなくなってしまう。
マイナスの感情はことばになってあらわれてしまうものだし、
いいエネルギーをブロックしてしまうんだよね。
気を付けなくちゃだよね。
話はそれたけど日本にはそんなふうに目に見えない何かを敬う文化がある。
だからわざわざブームとして市場を巨大化させることに疑問を感じることは多いです。
お盆やお彼岸や法事といったことをやるのも
やはり日常でのスピリチュアルなこと。
宗教は信じなくても仏壇に手をあわせることもそうだよね。
日本にはもとから先祖とか自分のルーツを信じる習慣がある。
何かあると故人のお墓にいったりするし
先祖に対して供養したりする。
そんな「目に見えないものに対価を支払う=サービス」
としての役割の精神世界に対して
俗世的、物質世界的なものを垣間見ることもかなり多い。
かといってそれらをタダでやることは単なる慈善事業でしかなく
付加価値との折り合いって本当難しいなって思います。
スピリチュアルブームの実際は
イギリスのスピリチュアルもアニミズムもヒンズーもチベット密教もニューエイジも終末思想もカルトもセクトもオカルトもマヤもキリがないくらいどれもこれもスピリチュアルという一言でいっしょくたになってる。
世界のスピリチュアルの博覧会的になってるのは
ネットの影響がかなり強いと思うんだ。
過去に問題をおこした宗教団体の冊子がよく投げ込まれてるんですが
読んでみるとみんなスピリチュアルと銘打って表現されています。
勧誘にはさぞかし便利なことばなんでしょう。
だからスピリチュアルはある程度の知識がないと危険。
癒しを求めてたらスピリチュアルと思ったものにいつのまにか大金をつぎこんでいた事件があったけど、おそらく氷山の一角でしょうね。
後戻りできない精神状態、
つまりマインドコントロールの危険性のものもあるわけだから。
それでもその人が癒されてるなら仕方ないんだけど。
だけどそんなふうにならないためには
自分というものをしっかりもたないとね。
ヒーリングやスピリチュアルを求めるときは
疲れていて内側にむいてるときだったりするよね。
外に気持ちが向いてるときは大丈夫なのよ。
なにかをきっかけに内側に気持ちがむいたとき
どういう見方をしていくかなんだよね。
自分の内側ののぞき方を誤ると時に後々大変になることもあるから。
自分探しの旅はいいけど
自分が本当は何を求めているのかは
自分の魂がちゃんと知っています。
答えは自分の中にあるのです。
定期的に自分の内側をみることをして
自分なりの自分の内側の見方や状態を知っておくと
挫折したときやなにかあったとき
内側にいる自分(つまりは自分の魂)がヒントをくれたりします。
つまり肉体の操縦の仕方を教えてくれます。
内側を定期的に見つめる方法としては瞑想があります。
最初はできなくても続けるうちに自分の中に入る自分なりのコツがつかめてきます。
そして「自分をもつ」「自分でいる」ということの意味を考えてほしいです。
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